2018/03/30発行 2018 SPRING掲載記事

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 1980年代、日本人起業家たちにとってニューヨークはまだまだフロンティアであった。さらに過去30年、技術革新が起こり、マーケットの動向は常に刷新され、消費者のニーズ、意識も驚くほどの速度で変化してきた。その中で、ニューヨークで起業し、生き残り、今もたくましくビジネスを展開している先駆者や企業がある。今回は、彼らの歩みと、どうやって生き残ってきたのか、また未来への展望も聞いた。

尽きない好奇心

 「毎日、サバイバルだね。仕事に行くときに、『今日、どうやって生き残るか』と考える」

 そう言ってTICグループ社長、八木秀峰は快活に笑う。八木は1984年にイーストビレッジにすし店「波崎」をオープンさせ、現在までに、16の飲食店を擁する一大グループを築いた。この、「今日を生き残る」、という感覚は、日本を出てアメリカに到着したときから、常に持ち続けているという。

 1948年生まれの八木は、社会が目まぐるしく変化し続けた高度経済成長期の真っただ中に青春時代を送った。

 「急激な変化だったね。はだしからゲタになって、靴を履くようになった感じ」と当時の変化を言い表す。そして、その変化の背後に、アメリカ文化の流入があると気付き、憧れた。同時に、団塊の世代に生まれた八木は、いつも他から抜きん出るため、何をするべきなのか考えていたという。

 「まさに同世代は『イモ洗い状態』。そんな中で、人と違うことをやるなら、自分で商売をしてみたい。そしてやるならアメリカで。とにかくアメリカを知りたい、見てみたいと思った」

八木秀峰
茨城県出身。1968年来米。ガソリンスタンドの店員などを経た後、ニューヨークで24時間営業の店や八百屋を営み、84年にイーストビレッジにすし店「波崎」を開店。現在「酒蔵」「しゃぶ辰」「茶庵」「蕎麦屋」「咖喱屋」など、和食16店舗を経営。昨年、農林水産省から日本食海外普及功労者表彰を受けた。www.tic-nyc.com

 1968年、所持金500ドルを携えて、ハワイ、サンフランシスコを経てフィラデルフィアに到着。ガソリンスタンドやピザ屋で働いた後、自身で24時間営業のダイナーや八百屋を営んだ。八木は昔から好奇心の塊だった。来米もそうだが、「知りたい」思いが、いつも自身を次のステップに導く。

 当時は日本から正統派のすし店がミッドタウンに出店し話題となっていた。八百屋を営みながら、顧客となるそれらの店にも出入りし、入念に情報を集め、「すしがはやる」という感触を強くしていった。八木の基本姿勢は、一般に「求められるもの」を感じ取り、それが分かったら「本物」を提供するために基本に立ち返るというものだ。その際、歴史まで立ち返り、考えに考えて店の仕組みの基本を作る。

 八木が主戦場に選んだのは、イーストビレッジ。八百屋の仕事を通して、知っているエリアではあった。

 「今でこそ人気だけど、当時は、まだ未開の地。ただ外国人が来たらまず住むエリアで、移民や若者が多く活気があった。彼らにとっては自分たちのすみかという感覚で、多様性を受け入れる雰囲気もあった」

 八木自身がニューヨークに魅力を見出したのも、多様性を受け入れてくれる、努力した分だけ認めてくれる街だと感じたからだ。そんな八木にとってもイーストビレッジは、居心地が良く、将来の発展を確信していた。

 長く商売をやる上で、不動産の重要性にも気付き、ビル自体を買った。時代の変化とともに、日本食もそば、カレー、日本酒と求められるものも変わった。「これが求められている」と見込んだら、自身で見て、調べた後に、行動を起こす。全てにおいて八木がやってきたことだ。「店ごとに、なぜそこに出したのか、なぜそれを出したのかストーリーがあります」。

 時代に必要とされるものを見抜き、多角的に店舗展開をしたことで、ビジネスが好調なときには発展し続け、振るわないときは、それらが補完する形で乗り切れた。

 一貫して揺るがないのは、「日本食を超えるものはない」という思い。「今までも、これからも日本食には夢がある、今後も伸びる。あとは次世代の若者がどれだけ興味を持っていけるか」。次世代に向けてはとにかく、言葉を尽くして、丁寧に対話することを心掛けているという。

 「何しようかと考えると楽しいね。私は問題が好きだから。だってチャレンジがあるというのは、チャンスがあるということだからね」


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